武田神社
山梨県甲府市
(写真は拝殿)
武田神社は信玄公の父、信虎が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅(つつじ)ヶ崎館跡にある。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されている。
躑躅(つつじ)ヶ崎とは
正面に甲府盆地、御坂山塊を通して富士山、西に南アルプス・八ヶ岳連峰、北から西に御岳連山と、甲斐の山々を除く景勝の地のことだ。 ここに、かって武田家三代(信虎、信玄、勝頼)が居住した武田館があり、それが躑躅ヶ崎の西方だったため、躑躅ヶ崎館とよばれた。
武田神社出版物(一部) |
武田家小史
武田氏の発祥から、勝頼敗死までを解りやすく解説。
発行年:平成7年6月1日
仕様:B6判モノクロ27頁
200円 二十四将略伝
常勝武田軍団を率いた二十四将各人の伝記。
発行年:平成5年4月6日
仕様:B6判モノクロ131頁
500円 甲斐・武田信玄
甲斐源氏の発祥より500年の光芒の歴史、また合わせて甲斐路を詳説。
発行年:平成5年4月12日
仕様:変型A4(210×270mm)
カラー108頁
1,500円 |
|
武田神社創建のいきさつ
武田神社は、この躑躅ヶ崎館の跡に、大正時代になって武田信玄公を祭神として建てられたものだ。また、この躑躅ヶ崎館のことは、武田節でもうたわれている。
(注)大正四年、大正天皇即位に際し信玄公墓前に従三位が送られたのを期に、山梨県民は信玄の徳を慕い、官民一致協力して社殿を造営、同八年竣工、鎮座祭が行われた。場所は躑躅ヶ崎館の東中曲輪跡。
躑躅ヶ崎の館が示す「人は城、人は石垣、人は堀」
天正九年(1581年)に勝頼が韮崎に新府城を築いて移るまで、武田三代の居館だった。方形で一重の濠(ほり)と土塁はあるが、城というべきものではなかった。
信玄はその全盛期でも、この貧弱ともいえる館にあって領国の経営にあたった。他の戦国武将がきそって大きな城をつくるなか、信玄の居城があまりにも貧弱なのはなぜなのか。 それは、信玄の詠歌といわれている「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇(あだ)は敵なり」にも歌われているように、
「どんなに立派な城を築いても、領国の武士と農民が、しっかり結ばれていなければ国は治まらない」
という信玄の信念があったからだろう、といわれている。つまり信玄にとって、甲斐一国が城だったのである。 躑躅ヶ崎館はその中心、すなわち、政庁として位置づけられていた。とはいえ、あまり知られていないが、この背後には要害城という詰めの城があり、いざという時に備えていた。
→7月17日の記事へ |